aとbと詩
昨年秋にameen's ovenで開催した「ことばの種、ふくらむパン そしてsomething good ~パンと詩のある風景を巡って」の後、打ち上げをした、名前の長い素敵な店、「bin ジャムと珈琲あるいはその他」で、盛り上がった計画がついに、「aとbと詩企画 vol.1 コーヒーと詩」としてbin(以下店名省略)にて3月9日、開催されました。
aはameen's oven、bはbin。
公開されているFBのイベントページはこちら
binの丹羽真矢さんは前回のイベントを知って、ぜひ自分の店で詩の朗読等のイベントをしたいと思われたそう。
aとbと詩(c)という企画を思いついた、彼が設定した今回のテーマはコーヒーと詩。「カフェは詩を読む場所である」。ゲストスピーカーは詩人でありコーヒーにも造詣の深い小山伸二さん。わたしはナビゲーターとして参加させていただきました。
だいたい、詩と聞くと、関係ない世界のこと、と思う人が多いかもしれない。
わたしも詩のことはいまだよくわかっていない。
けれど、なんといったってその詩によってわたしはミシマさんと会い、小山さんと会い、
丹羽さんと会った、と思っている。心を打つ言葉と出合う瞬間がとても好き。
遠く離れた夙川で、当時実店舗を持たずにオンラインショップだけでパンを焼いていたミシマさんのパンの匂いを感じ、新幹線に乗って彼に会いに行ったわたしが思うのは、詩、というとかまえたりひいてしまう人も、心をとらえる言葉、と聞いたら、ひとつくらいは、経験しているのでは、ということ。
というような角度から、わたしはナビゲーターをさせていただきました。
第一部は、詩とコーヒーについてのトーク。
コーヒーという飲みものの持つ、二面性。覚醒と酩酊、孤独と交流。
詩が、「ひとがその生存のために必ずしも必要としない余剰の部分」としたら、コーヒーの立場も、それと似ているかもしれない。詩もコーヒーもそしてパンも、ただ単に消費されていく表層的なファッションとしての取り上げられ方はきっと不幸だ、ということ。
そして小山さんが自分にとっての「詩」をこんなふうに言っておられたのが印象的でした。
人が生きていくうえで、必要不可欠なものではないかもしれないけれど、「むしろ、必要不可欠なことやものにとりかこまれて、窒息しそうな今日を生きるぼくたちのために、そっと寄り添ってくれる、いとおしい存在としてあればいいな、とぼくは考えます」
続いて第二部はコーヒーやワインとともにミシマさんのバゲットにホワイトチェダーをサンドしたカスクルートが配られ、それをかじりながら、詩の朗読など。wa-noさんの演奏とともになされる朗読がことのほか、素敵でした。
噛めば噛むほど味が出る、なんて言い古された表現をしたくはないけれどしてしまう、ミシマさんのパン。チェダーチーズは黄色があざやかなので、よくサンドイッチに使われるけれども、わたしは常々、その色が派手すぎる、と思っていたので白いチェダーをいいなと思いました。ミシマさんのバゲットと合っていた。
詩は、質問をしてはいけないようなのに、わたしはすぐに聞きたくなります。これはどういう意味?何の比喩?何故?ジャーナリスト的それとも探偵的な性格かもしれません。だからそれを懸命に抑えながら、詩に耳をかたむけました。
いくつかのコーヒーの詩の朗読の中で印象に残った詩。
***
「カフェ」 小山 伸二
所望された希望の輪郭が見えない
この世紀において
きみが歩き、とまり、すわる場所が
朝陽のようにあればいいのに
嵐のなかの海の灯りが
はかない今日を照らす(ように)
ぼくたちの
所望された一杯を飲み干して
それぞれの淋しい谷間に降りて行く
その別れの朝をタオルのように積み上げて
所望された希望の輪郭を
ここでは見えなくても抱きしめる
きみが唄い、語り、歩き出す場所が
朝陽のようにあればいいのに
嵐のなかの海の灯りが
はかない今日を照らすように
***
「砂漠」 ミシマ ショウジ
まぶたのない夜
それはそれは
くらい夜
わたしは
ゆらゆらコップにそそがれ
夢が
うつろにうつろい
行き場なく
コーヒーを飲み
砂漠に新月をさがしにいく
アルフ ライラ ワ ライラ
アルフ ライラ ワ ライラ
千の夜が砂 のうえに男をあるき
ひとりのあなたを迎える
日暮れに甘いハルワをほおばり
コーヒー豆を炒る
広場のすみには
ベールをかぶり 夜の敷石になろうとする者
の闇
その闇は
利子に利子が降り積った わたしのこの家
異教徒の家
やはり砂漠
アルフ ライラ ワ ライラ
アルフ ライラ ワ ライラ
千の夜にもひとりのあなた
千のあなたが ひとつの夜
ライラ ライラ
ラー イラーハ イッラッラー
あなたしかいない
あなたしかいない
主をなくしたまぶたは
姉妹となって寝ぐらをさがし
切りとられたまぶたはたちは
蛾になって新月に群がっている
砂漠では
こうして 断食月がはじまる
***
わたしはコーヒーの詩を準備していなかったので、今年の初め、福間健二さんの塾のために書いた詩を、読ませていただきました。
***
「バゲットのような人生」 清水 美穂子
半透明の膜をもつ、大小さまざまな穴が
無数に、不規則にあいている。
それは、ゆっくりと時間をかけた、発酵のあと。
自然のうつくしい造形。
内相は、バゲットの出来を物語る。
自分に、少なからず影響力を持ったひとと
二度と会えなくなると、こころに穴があく。
穴は、いつまでもあいている。
不在の存在感をもって、永遠にふさがることがない。
それからは、穴とともに生きていくことになる。
長く生きていれば、大小さまざまな穴が無数にあくだろう。
でもそれは、醜いことでも、淋しいことでもなくて
素敵なしるしなのではないか。
ハチの巣のこころは、光に透ける
みずみずしい気泡を内包するバゲットのように
あまく、芳ばしく、味わい深い人生を
物語るのではないか。
美味しい、バゲットのような人生を!
***
コーヒーについて語る人、パンについて語る人、詩について語る人、それぞれの話を聞きながら、それはそれぞれの生き方そのものだと思いました。
わたしは、自分が生きていくなかで、自分の小さな暮らしの中で、パンをつくる人と出会い、そのパンと出合う。コーヒーと出合い、言葉と出合う。そこで、自分だけの経験をかさねていく。そういうことが好きで、それが時代の情報の海で溺れることから救ってくれているのかもしれない、と思いました。
イベントについて、うれしい感想をいくつもいただきました。FBに公開されているイベントページより一部、ご紹介させていただきます。ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。
Oさん
全編にわたって私にとってはブレインストーミングみたいな時間で、様々な気づきがあり、小山さんのお話、
とても面白かったです。正直、現代詩は俳句や短歌に比べて感情が生々しいと感じることが多くて苦手意識
があったのですが、人の声を経て、その時空間を共有する「朗読」の魅力を味わいました。また、参加させ
て頂きたいと思います。
Sさん
改めて、パンもコーヒーも歌うんだ…と思った昨晩、実感した今朝、ミシマさんのパンは、パンの歌が気泡の中に詰まってて、噛むとパンと歌の香りがする。ミシマさん。ありがとうございました。
ソラマメさんのコーヒーは、人の詩が唇を通して、人に伝わるみたいにフィルターを通して、思いが伝わる、そんな感じがしました。ソラマメさん、ありがとうございました。
昨日、ラストまではいられなかったのですが、そんなことを思いつつ、帰りました。
binさんありがとうございました。清水さん、またしても素敵なsomething goodありがとうございました。
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余興。
「カフェは詩を読む場所である」 清水美穂子×小山伸二
壁を四角く切り抜いた、その向こう側に見えるもの。
冬の庭に樹木の影が曲がっていく。
永遠と一日。影が移ろいながら描く軌跡。
走り出した路地に消えて行った声を探しながら。
白い湯気が光の粒子に同化する、螺旋。
終わりなき旅のさきに。
寄り道するささやかな愉しみと幸福を想う。
虫籠のなかに閉じ込められた夏の記憶。
バスが夜の地平を走り抜ける。
詩が死を貫くようにして沈黙が闇を切り裂いて行く。
夜通しの唄。老いて無垢なる旋律の響き。
出会った数の夜の空を切り抜いて。ここに置いていく。
明け方、こぼれ落ちていた夢を拾う。
瑠璃色の光が踊る場所で。詩を拾う。
※折句(おりく)といって、一行の冒頭の文字をつなげるとひとつの意味になります。ゲームのようでおもしろい。詩のワークショップで、こうした練習が行われることがあるそうです。わたしは奇数行を書かせていただきました。