Bread days in 10 years / ameen's oven

ameen's ovenがOPENして14年、椋の木と大きなテーブルのある今の場所に移ってちょうど10年ということで、パンにまつわる記念の冊子が発行されました。ameen's ovenらしい、チャーミングな一冊です。 

 

ミシマショウジさんの「パンのふくらみの宇宙」の詩も載っています。2004年に初めて読んだときからこの詩が好きです。

 

「ほら、それは君がふくらます風船ガムのようで、気球のようで、大気を抱くこの星のようでしょう」

 

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この冊子が、パンをご注文された方にもれなく一部ついてくるそうです(なくなり次第終了)。ameen's ovenはいま、和栗のフォカッチャやパンプキントースト、GO-BOコンプレ、そして和栗や黒糖キャラメルぺカンナッツのスコーンなど、「秋のみのりのパン」が出揃っていますので、サイトをご覧になってみてください。

 

冊子には、わたしも寄稿させていただき、とても、うれしいのです。

ミシマさんの許可を得て、ここに転載します。 

 

すんくじら、という居場所   

清水美穂子 / ライター・ブレッドジャーナリスト

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サウスダコタ州の大草原に囲まれた町で撮影(1984

 

すんくじら、という言葉を初めて聞いた時、胸の上のあたりが、すんと淋しくなった。大海原に鯨が一頭、孤独に、でも悠然と泳いでいるところを思った。

 

「すんくじら」とは薩摩の言葉で、意味は「すみっこ」。「すん(隅)」も、「くじら」も、もとは、物陰の、光のあたらないところを指すらしく、ある種の淋しさは正しかったが、鯨のことではなかった。

 

それからしばらくして、私の中に、すんくじらが住みついた。それは静かな心の置きどころ。落ち着く居場所のメタファーだった。

 

たとえば、夜道をひとりで歩いている時に、記憶の片隅に浮かぶ風景がある。それは全方角、ただただ広い大草原に囲まれた町の端にある、うらぶれた1軒のカフェだ。日が暮れると橙色の灯がともるその店は、茫漠とした場所に穿たれた灯浮標(ブイ)だった。無限に広がるように見えるものの末端であり、安心できる場所だった。

 

私の仕事は案内人。情報の海で溺れそうになっている人に、浮き輪を渡すこともある。雲のようにしばらく浮いて、のんびりと流されたらいい。さっさと手離して、好きなところへ自力で泳いで行ってもいい。誰かに、今どこへ行くべき、何をすべきと薦めることは、長生きすればするほど、難しくなるが、たまに、誰彼かまわず、ぜひともそこに行くように、薦めたくなるときがある。

 

それはたとえば、すんくじら、つまりは世界の片隅で、まだ暗いうちからせっせと誠実なパンを焼いている、職人に出会ったときだ。どんな日であっても、その町のその店で、その人はパンを焼いている。その確かさを思うだけで、ほっとして、ゆるやかな心地になっていく。※

 

-----このパン屋さんへ行けば、安心だよ。
-----もしひとりぼっちでも、大きなテーブルがひとつあるから、誰かと一緒にスープやサンドイッチが食べられるよ。

 

パンこそがまた、すんくじら的な位置にある食べものだと思う。私は、フランス料理のコースなら、中心となるメインよりアミューズが、句読点となるパンやデザートが、気になって仕方ない。主役ではない、ひっそりと目立たないところにいる、愛すべき名脇役

 

さらにフォーカスを絞る。食パンならば、ミミのところ。バゲットならば、よく焼けたクラストと、気泡を透かして見る向こう側。角や端から、ひろく世界を見渡したい、と思う。

 

同じ角のカフェに立って何年も、交差する路を定点観測する人に、憧れる。
露地を通る人を眺め、天気を体感する、外のような内のような、どちらともつかない縁側を愛している。

そしてこの世の果て、結界というものに、惹かれる。橋がかり。あの世とこの世。往来できるところ、できないところ。国境、空港、海辺、川辺、窓辺……遠く近く、広く狭く、この世界を縁どるものたち。

 

私は今日も、すんくじらに居て、世界と接している。


※インターネットの宇宙で、ameen's ovenに辿りついた時には、胸が高鳴った。
 それから14年。詩人のミシマさんは今日も変わらず、誠実なパンを焼いている。

 

ameen's ovenで近日開催のイベント