四方田犬彦『ひと皿の記憶』より「バゲット」

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いま読んでいる、四方田犬彦『ひと皿の記憶』に「小学校に通っていたころの何が一番の苦痛だったかといえば、給食だった」から始まる「バゲット」の章がある。そうだあのパン(とそれにまったく合わない食べ物)、ひとまわり年が違っても、ひどく共感して読み始めた。

彼はO・ヘンリーのパン屋の娘と画家の出てくる短編を読んで、そうかパンなど食べるものではない、消しゴムに過ぎなかったのだと思うことにする。(話はそれるが、わたしも子供のころにあの話を読んで、でも、そんなふうに思わなかった。ただ、貧しい画家に恋心を持った娘が、こっそり画家の買うパンにバターを塗っておいてあげたのが裏目に出て、それを消しゴムに使おうとして絵を駄目にしてしまった画家に怒られる、悲劇だと思っていた。おかげで、そんな話も思い出した。)

四方田さんの偏見が幕を閉じたのは、母親の焼くクロワッサンだったという。わたしも、そうだったかもしれない。でもわたしの子供時代には、時を同じくして、町にもおいしいパン屋さんができ始めていた。

やがて彼はパリでバゲットに出合う。「痩せて無愛想に見えながらも、どこか禁欲的に食卓の全体を見守ってくれるようなパンだった」と評する。ここまでは、誰でも言いそうなことだけれども、ここからが面白い。

彼は日本のパンにフランスにはない、創意工夫と「おまけ」文化を観る。この穴にカスタードを詰め込めばもっとおいしくなるだろう、とか、いろいろといじくっているうちに、パンそのものが食卓の上で果たす本来の役割を忘れて、お菓子に作りなおしているのではないか、と。

そしてできたお菓子の集合地では、バゲットは歩が悪くなる。ハード系のパンが売れないとか、夕食にパンを食べよ!と10年以上言っているパン屋さんはハッとするかもしれない。

バゲットは食事の際に傍らに控えているパンであり、脇役であるのに、日本のパン屋さんはバゲットにもいろいろな化粧を施したくなる。「おまけ志向、お菓子志向がバゲットの本質を殺してしまうのである」。なるほど。

もちろん昨今では、パリよりもおいしいと評されるバゲットは日本にたくさん存在するし、シンプルでおいしい脇役的パンはたくさんあるけれど。

日本全体のいまの食文化を考えてみたら、日本のパンが「食卓全体を見守ってくれる脇役」にはならずにお菓子や間食として、手軽に食べられるファストフードとして、生きていく道を模索していることは、確かだと思う。