カレーのエッセイからパンを考える

先日、面白い本を読んだ。

『アンソロジー カレーライス!!』(PARCO出版)。作家たちによるカレーライスについてのアンソロジー。なかでも、古山高麗雄(1920-2002)という人の文章が興味深かった。

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カレーの話だけれど、こういう時(食文化の話を読む時)の常でわたしは、パンのことを考えながら読む。

多民族国家というわけではないのに、私たちの国ぐらい、世界各国の料理が氾濫している国はない。いろいろな民族がいて、それぞれが自分の民族の料理を求め、その結果各国の料理があるというのではない。日本人が、渡り歩いて、食っているのである。そういう日本人を客にして、年には、各国のレストランが店を構え、それだけではなく、異国の料理が家庭にまで入りこんでいるのが、私たちの国である」

パンも氾濫している。でも、カタカナで表記する外来語のように、パンはとうに日本のものになっている。多くの職人さんの努力で、いろいろな国に由来するさまざまにおいしいパンが、今も試行錯誤をかさねながらこの国の水や小麦粉で、独自の素晴らしい進化を続けている。

「戦後、この国にはスーパーマーケットが簇生し、食品会社が全国一律に、きまった味のルーを出荷している。青森でも鹿児島でも、同じルーを使って、同じ調理法でカレーライスを作っている。スーパーとテレビは、それだけでそうなったのではないが、この国とこの国の人々を画一化した」

テレビのほかに雑誌が、そして今はインターネットがある。

スーパーやコンビニエンスストアでは、どこでも同じ味のパンがリテイルのそれより低価格で、いつでも手に入る。パンだけれど新しい色や香りが季節ごとに流行する。会話をしたくない人はしなくても買うことができる。時代。

「私が、美味求真と口にしないのは、戦場で餓鬼道に落ちたからである。以来、私は、まずいという言葉を口にすることができなくなってしまった。だからといって、今は、まずいものを食う気にはなれない。今はその必要はないし、私は老人になった」

ここを読んで、今年、舟田詠子さんにインタビューをした時に、思わず涙ぐんでしまったことを思い出した。

「アルプスの村のおばあさんたちはね、”食べもので何がいちばん好きですか”と聞くと、”食べられるものならなんでも好きですよ。食べられるものならなんでもおいしいと思いますよ”と言ったのよ」

はっとした。自分で麦を育て、パンを焼く人の言葉だった。わたしはメディアの企画でパンのランキングの仕事をしたばかりだった。パンを嗜好品のごとく、主観で感じたことを伝えたまでだったけれども……。良くも悪くも、わたしは今この時代の資本主義経済のなかで生きているのだった。

わたしが受け持っている冊子のコラムへ、「消費者はどんなパンを求めているのか」、パン屋さんからの質問が寄せられる。消費者は素材も製法も流通経路も価格も多様なパンを前に、どれにしようか考えている。

「そうだ、あの店のパンを買おう」と思うきっかけを、わたしは作ってきたのだし、作っているのだと思う。個人的で小さな感動を、言葉にして伝えるのが、大好きだから。

おいしくていいもの。楽しくて素敵なこと。そのまわりにいる人々のことを伝えたい。

painに、痛みにすくんで、怠けている場合ではない。

カレーの本を読みながら、そんなことを考えていた。

昨日のpainの続きで、妙な感想文になってしまった。

読んでくださってありがとうございました。